【お 雇い 外国 人】 東京 美術 学校の 設立に 関わった フェノロサの 意外な 経歴とは!?
いろはめぐり
こんにちは、とくらです。
上野公園にある東京藝術大学の前身となった東京美術学校は、設立当時日本で唯一の美術専門学校でした。
日本の美術文化保存に大きく貢献した東京美術学校。
岡倉天心とともに、この学校の設立に関わったお雇い外国人・フェノロサの名前をご存じの方も多いのではないでしょうか?
もしかしたら、薬師寺東塔を見て「凍れる音楽」と評した人物として記憶にある方も多いかもしれませんね。
さて、今回はこのお雇い外国人フェノロサについてご紹介したいと思います。
*そもそもお雇い外国人って?
お雇い外国人とは、幕末から明治時代にかけて日本政府や府県によって雇われた外国人のことです。
当時の日本人は、近代化推進に向け海外の技術や考え方を学ぶために、知識や技術、経験を持った欧米人や中国人、インド人などを雇用しました。
内容は外交や法律、軍事、工業、医学、芸術など多岐にわたります。
お雇い外国人としてやってきた人々は各分野の発展に大きな影響を与えており、色々な場所で名前を知っている・聞いたことがある人物も多いと思います。
たとえば、建築家のジョサイア・コンドルは建築学の教師として来日し、上野博物館や鹿鳴館の設計を行ったことで知られています。
また、大森貝塚を発掘したエドワード・シルヴェスター・モース、ハインリヒ・フォン・シーボルトや、新聞記者、小説家の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)なども有名ですよね。
お雇い外国人の中には、任期を終えてもそのまま日本に残る人もおり、小泉八雲は小泉セツと結婚し日本国籍を取得しています。
フェノロサも、明治時代に専門家として日本に来日した一人です。