第一章:陛下のご乱心
プロイア王国の朝は、いつもと変わらぬ穏やかさに包まれていた。だが、その穏やかさは、国王陛下、レオポルド三世の一言で木端微塵に打ち砕かれることになる。
「余は、この世界の中心である!」
朝食の席で、パンにバターを塗りながら陛下は仰せになった。その声は、朝日に照らされた豪華な食堂に響き渡り、ナイフとフォークの音が不自然に止んだ。宰相のベニートは思わず噎せ込み、侍従長のアナトールは持っていた銀のトレイを落としそうになった。皿の上では、焼きたてのベーコンがカリカリと音を立て、何事もなかったかのようにそこに存在している。レオポルド三世は齢六十を過ぎた温厚な人物として知られていたが、ここ最近、その言動には奇妙な傾向が見られ始めていた。
「陛下、何をおっしゃいますか。太陽は地球の周りを回っておりますが…」
ベニートが恐る恐る口を開く。彼の額には、すでに冷や汗がにじみ、顔色は蝋のようだ。
「いや、違う! 太陽が地球の周りを回っているのではない。太陽が余の周りを回っているのだ! 余が眠れば太陽も沈み、余が目覚めれば太陽は昇る。当たり前のことではないか!」
陛下は力説した。そして、その日の午後には、王国の天文台に「太陽軌道修正計画」なるものが発動された。天文学者たちは混乱し、技術者たちは首を傾げたが、国王の命令は絶対である。
「陛下、巨大な反射板の建設には莫大な費用がかかりますし、そもそも太陽を動かすなど、物理的に不可能です! 天文台の予算は、月の観測にしか使えないはずでは…」
主任天文学者が震えながら進言した。彼の顔は、この世の終わりのような色をしている。
「ならば、費用は国庫から出すが良い! そして、動かしてみせよ! 余が命じるのだから、不可能などありはしない! できないと言うなら、このプロイアの星空から太陽を消しても構わぬぞ! 明日からは月明かりと、余の輝かしい笑顔で過ごすことになろうがな!」
無理やり太陽を動かすための巨大な反射板や、謎のエネルギー発生装置の建設が始まった。もちろん、完成の見込みは全くない。天文学者たちは、日夜、空を睨みながら頭を抱え、物理法則との戦いに敗れ続けていた。ある日、天文台の所長がストレスで円形脱毛症になったという噂が、宮廷内に広まった。そして、反射板の設計図には、なぜか巨大な陛下の似顔絵が描かれていた。
第二章:経済の地滑り
陛下の「世界は私で回っている」理論は、天文台だけに留まらなかった。経済にもその影響が及んだ。
「王国の経済は、余の気分によって左右されるべきである!」
ある日、陛下は宣言された。これまでの経済政策は全て撤回され、代わりに「陛下のご機嫌経済計画」が導入された。陛下の機嫌が良い日は株価が上昇し、機嫌が悪い日は下落する。もちろん、国民は陛下の機嫌を察することなどできず、市場は大混乱に陥った。投資家たちは日夜陛下の顔色を窺うようになり、王室報道官の発表する「今日の陛下のご気分」が唯一の頼りとなった。
「本日、陛下はご満悦遊ばされており、特に苺のタルトが美味であったとのお言葉を賜りました! 株は買いです! ただし、タルトの上のクリームの量は、陛下の気分により変動する可能性がございますので、ご留意ください!」
報道官がそう発表した途端、株式市場は一時的に活況を呈した。
「よし!陛下がご機嫌なら、これで我が社の株も上がるはずだ! 全財産を投入するぞ! しかし、クリームの量で株価が動くとは…」
ある投資家が歓喜の声を上げた。彼の目は、異常な熱を帯びている。
しかし、翌日陛下が「昨日のタルトは少々甘すぎた。今後は砂糖を控えよ。余は、もう少し酸味が好みだ!」と呟いた途端、株価は暴落した。市場は阿鼻叫喚の渦に包まれた。
「陛下の機嫌でパンの値段まで変わるなんて…! 今日は小麦が不作だと仰せだったぞ! しかも、ご自身の味の好みが経済に直結するとは…!」と国民はため息をついた。
「もうやめてくれ…このままだと、一家が路頭に迷ってしまう…! 明日は陛下の朝食に、そっと苦いコーヒーを出すべきか…いや、それではさらに機嫌を損ねてしまう…! むしろ、最高級のレモンを献上して、酸味の強さをアピールするべきか!?」
あるパン屋の店主が顔を覆って呻いた。王国の国庫はあっという間に底を尽き始め、破滅の足音が忍び寄っていた。街には失業者があふれ、物々交換の市場がひっそりと開かれていた。王室御用達の服飾店ですら、客が来なくなり店を閉める寸前だった。国民の生活は、まるでジェットコースターのように乱高下を繰り返した。
第三章:外交の茶番
国内の混乱は、やがて外交にも波及した。
「他国の元首は、余に敬意を払うべきである。なぜなら、彼らも余の世界に存在しているのだから!」
陛下は、周辺国からの使者をまるで家臣のように扱い始めた。隣国リベリアの女王が親善のために訪れた際には、「余の機嫌を損ねぬよう、最大限の敬意を払うべし。特に、余が退屈せぬよう、面白い冗談を三つ用意してくること。ただし、つまらない冗談は許さぬ。もし不快にさせれば、余の機嫌でそちらの国の国土が小さくなる可能性もあるぞ!」と書かれた異例の書簡を送った。当然、女王は大激怒し、両国の関係は一触即発の事態に。
「プロイア国王は、我々を愚弄しているのか!このような書簡は外交慣例を逸脱している! これではまるで、陛下の私設エンターテイナーではないか!しかも、ジョークの質まで問われるとは! 我が国は国土が狭いのだぞ!」リベリア女王は憤慨して叫んだ。
国際会議では、陛下は壇上に上がり、世界の主要国の首脳を前に「余の素晴らしい世界論」を熱弁した。
「諸君、この世界は余の意思によって動いている!故に、諸君らは余の意向に従うべきである! 我がプロイアの国境線は、余の気分によって自在に伸縮するのだ! たとえ諸君の領土の一部が、余の気分でプロイアの一部となっても、それは世界の摂理なのだ! 文句があるならば、余の夢の中に現れて、直接交渉することだ!」
各国首脳は唖然とし、中には失笑する者もいた。隣国ゼニアの大統領は、こめかみを抑えながら隣国の首脳に耳打ちした。
「あの国王は、一体何を言っているんだ…? まるで子供の夢想家じゃないか。しかし、彼の言う『国境線の伸縮』が冗談で済まされればいいが…まさか、本気で地図を書き換えるつもりなのか…? 夢の中で交渉とは、どうすればいいのだ…!?」
陛下の演説が終わると、会場は不気味な静寂に包まれ、誰もがプロイア王国を「異常な国」として認識するようになった。外交官たちは連日、自国の不手際を謝罪し、陛下の奇行を必死に隠蔽しようと奔走した。大使館は連日、クレームの電話でパンク寸前だった。国際情勢は一気に不穏な空気に包まれた。一部の国では、プロイア国王の夢に侵入するための研究が極秘裏に進められたとか、いないとか…
第四章:国民の反乱
経済は破綻し、外交は孤立。国民の不満は限界に達していた。
「もう我慢できない! 世界は陛下を中心に回っていない!」
ある日、パン屋の親父が叫んだのを皮切りに、デモが勃発した。最初は小さなものだったが、瞬く間に王国全土に広がり、国王に対する抗議の声は日に日に大きくなった。市民たちは「太陽は陛下の周りを回らない!」「パンは陛下の気分で値段が変わらない!」「我々の腹は陛下の気分で膨らまない!」「陛下の機嫌で命まで取られるのはゴメンだ!」「夢の中まで追いかけるのはご勘弁!」と書かれたプラカードを掲げ、王宮へと押し寄せた。
「陛下、これは尋常ではございません! 国民が暴徒と化しております! このままでは、王宮が…王位が危ういですぞ! 陛下のご安全のためにも、一時的に避難を!」ベニートは震える声で訴えた。彼の顔は真っ青である。
しかし、レオポルド三世は動じない…
「愚かな国民どもめ!彼らはまだ、余の偉大さを理解していないだけだ。いずれ、余の世界の中心としての存在を認めざるを得なくなるだろう。どうせ、すぐに飽きて家に帰るに決まっている。まるで、我が飼っている犬のように、吠えてはしゃいでいるだけだ。余の言うことを聞かぬなら、嵐でも呼んでやろうか? どこかに傘でも隠したか?」
陛下は、王宮のバルコニーから群衆を見下ろし、まるで舞台役者のように腕を広げた。その表情には、一切の悪意も、ましてや狂気すらなく、ただ純粋な信念が宿っていた。それが、余計に国民を苛立たせた。群衆は、陛下の言葉にさらなる怒りの声を上げた。王宮の門が、ごう音を立てて揺れ始めた。一部の兵士は、あまりのシュールさに顔を背けていた…
第五章:世界の修正
王宮に押し寄せた国民は、ついに門を打ち破った。混乱の中、国民は王宮の中へと流れ込む。しかし、彼らが目にしたのは、意外な光景だった。
陛下は、玉座に座り、まるで全てを予見していたかのように穏やかな顔をしていた。その手には、色とりどりの積み木で作られた小さな地球儀が握られている。その地球儀には、彼が勝手に書き加えた新たな大陸や、存在しない山脈、そして「余の専用リゾート地」と書かれた小さな島が描かれていた。
そして、広間には、天文学者たちが必死で開発していた「太陽軌道修正装置」や、経済学者たちが首をひねっていた「陛下のご機嫌測定器」が、ガラクタのように転がっていた。中には、陛下の気分を上げるために、ひたすらご機嫌な音楽を流し続けるだけの装置もあったが、すでに埃をかぶっていた。
その時、一人の少女が陛下の元へ駆け寄った。彼女は、陛下がかつて可愛がっていた孤児院の子供だった。
「陛下! 太陽は動かないし、パンの値段は陛下の気分で変わらないわ! でも、それでも私たちは陛下を愛してる! だから、どうか、元の陛下に戻ってちょうだい! 私たちのプロイア王国を取り戻して! あなたが笑ってくれるだけで、私たちは十分幸せなのよ!」
少女の純粋な言葉が、なぜか、陛下の心に響いた。レオポルド三世の表情が、一瞬にして曇った。そして、初めて、その瞳に迷いの色が宿った。積み木でできた地球儀が、はらりと彼の膝から落ちた。床に転がった地球儀は、何の音も立てずに静止していた。
「そうか…そうであったか…余は、なんと愚かな…皆、こんなに苦しんでいたのか…私のために…」
陛下は、まるで深い眠りから覚めたかのように呟いた。その日を境に、レオポルド三世の奇行はぴたりと止んだ。天文台の太陽軌道修正計画は中止され、経済は専門家の手に戻った。外交関係は修復に向けて動き出した。ベニートは深々と安堵の息を吐き、アナトールは泣きながら玉座にひれ伏した。
全てが元通りになった…かに見えた…
しかし、国民は知っている。時折、レオポルド三世が夜空を見上げ、満月に向かって静かに呟くことを。
「ああ、美しい!やはり月も、余のために輝いているのだな…」
世界は、表向きは正常に動き出した。だが、レオポルド三世の心の中では、今も密かに、彼を中心とした小さな宇宙が回り続けているのかもしれない。そして、それが、プロイア王国に、かすかな、しかし確かなブラックユーモアの余韻を残していた…
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