第1章:夜の顔と、その起源
真夜中の帳が下りた街は、俺にとっての舞台だった。 スパンコールの輝くドレス、煌めくアクセサリー、そしてヒールが奏でる小気味よいリズム。 男としての自分を脱ぎ捨て、”リリー”として街をさまよう。
この行為に意味などなかった――いや、意味はあったのだ。
それは、幼い頃から常に「男らしくあれ」と口にする父親からの無言のプレッシャーからの逃避であり、社会が押し付ける性別の役割に対する、ささやかな抵抗だった。 会社では常に効率を求められ、家庭では頼りがいのある長男であろうとしてきた。
その息苦しさから解放される唯一の場所が、この夜の街だった。 女装している時だけは、誰の期待にも応える必要がなく、ただ自由に、自分らしくいられた。 それが、たまらなく心地よかった。
今夜もいつもの路地裏に身を潜め、人々の視線を感じながら優越感に浸っていた。 行き交う人々は、俺の存在に気づくこともなく、それぞれの夜を謳歌している。
誰も俺を男とは気づかない。 誰も俺の本当の顔を知らない。 それが、リリーとしての絶対的な自由だった。
「私には関係ないわ」
そう心の中で呟き、通り過ぎようとした、その時だった。 路地裏の奥、ゴミの山にもたれかかるようにして、一人の少女がうずくまっていた。 小さな体は寒さに震え、膝を抱え込んでいる。 家出だろうか。 そんな考えが頭をよぎったが、すぐに振り払ったはずだった。
第2章:声なきSOSと、リリーの戸惑い
少女は、俺の視線に気づいたのだろうか、ゆっくりと顔を上げた。 その目は、恐怖と諦めが入り混じった、幼すぎる瞳だった。 助けを求めるような、それでいて何も語らないその視線に、俺は一瞬、たじろいだ。 その小さな体から発せられる絶望が、リリーとしての厚い仮面の下にある俺の心を直接揺さぶった。
「どうしたの?こんなところで、一人で何してるの?」
リリーの甲高い声が、静かな路地裏に響く。 自分で発した声なのに、なぜか違和感を覚えた。 いつもは自信に満ちた声が、今はひどく空虚に響く。 少女は何も答えず、ただじっと俺を見つめていた。 その沈黙は、雄弁だった。 言葉にならないSOSが、俺の心に直接語りかけてくるようだった。 その視線は、まるでガラス越しに本当の俺を見透かしているかのようだった。
普段なら、すぐにその場を立ち去っていただろう。 他人の問題に巻き込まれるなんて、リリーの美学に反する行為だ。 だが、その夜はなぜか足が動かなかった。 少女の瞳に映るリリーは、ひどく滑稽で、哀れに見えた。 メイクの下に隠された男の顔が、わずかに熱を帯びるのを感じた。
「お腹、空いてるの?」「寒いんでしょ?」
いくつか問いかけてみたが、少女はただ震えるばかりだった。 「助けてほしいのね?」 と問うと、少女はか細く頷いた。 その瞬間、リリーとしての仮面が少しずつ剥がれていくのを感じた。
第3章:リリーの変容と、小さな信頼
俺は、少女の隣にそっと座り込んだ。 汚れることなど気にせず、ヒールは脱ぎ捨て、ドレスの裾を気にすることもなく、ただ少女の小さな肩に手を置いた。 少女は最初、ビクッと体を震わせたが、やがてその震えは収まった。 彼女の顔には、警戒の色がまだ残っていたが、俺の差し伸べた手に、わずかながらも安堵が滲んでいるのがわかった。
「大丈夫よ、私がいるから」
そう呟くと、少女は俺の顔をじっと見つめた。 その瞳に、ほんの少しの光が宿ったように見えた。
「お腹、空いてるんでしょ?何か食べたいものある?」
絞り出すようにそう尋ねると、少女はこくりと頷いた。 「おにぎり…食べたい…」 その蚊の鳴くような声に、俺は胸が締め付けられる思いだった。 俺は、持っていた僅かな小銭を握りしめ、近くのコンビニへと走った。 その間も、少女が逃げないか、あるいは誰かに連れて行かれないか不安でたまらなかった。
戻ってくると、少女はまだ同じ場所にうずくまっていた。 温かいおにぎりと、冷たいお茶を差し出すと、少女は遠慮がちにそれを受け取った。 その小さな手が、まるで壊れ物のように震えていた。 「ありがとう…」 小さく呟く少女の声が、俺の心に深く響いた。 少女は「さくら」と名乗った。
家を飛び出してきたこと、親からの叱責、学校でのいじめ、どこにも居場所がないと感じていたことを、ぽつりぽつり、途切れ途切れに話してくれた。 リリーは、ただ黙って耳を傾けていた。 さくらの言葉の一つ一つが、リリーの奥にある「男の自分」を呼び起こしていく。 その夜、俺はリリーとしてではなく、一人の人間として、さくらと夜を明かした。 さくらの小さな寝息が、俺の心に温かい何かを灯した。
第4章:男の顔への回帰
夜が明け、東の空が白み始める頃、俺は自分の愚かさに気づいた。 スパンコールのドレスも、厚化粧も、昨晩の俺には必要なかった。 ただ、一人の人間として、さくらの隣にいるだけでよかったのだ。 リリーの煌びやかな装いは、朝の光の下ではひどく場違いに見えた。 化粧のひび割れが、痛いほど俺の現実を突きつけた。
「さくら、どこか、行きたいところはある?」 俺は、精一杯、優しく語りかけた。
俺は、生まれて初めて、女装した自分に嫌悪感を覚えた。 夜の街でしか息ができなかった自分が、あまりにも小さく、情けなく思えた。 さくらが小さく「お家…」と答えた時、俺は決意した。 もう、リリーとして夜を彷徨うのはやめよう。 この子は、俺に本当の自分を思い出させてくれたのだ。
俺はさくらを連れて警察署へ向かった。 道中、俺の地味な服装に目を留めたさくらが、不思議そうに尋ねた。
「ねぇ、お兄ちゃん、昨日と違うね。メイクもしてないし、変な服も着てない」
その無邪気な言葉が、俺の心に深く刺さった。 警察での手続きを終え、さくらが家族の元へ帰る準備をしている時、彼女が振り向いて言った。
「お兄ちゃん、ありがとう。お兄ちゃんに会えてよかった」
その言葉は、俺の心に深く響いた。 俺は、もう「リリー」ではなかった。 さくらが呼んでくれたように、ただの「お兄ちゃん」だった。 さくらの瞳には、もはや警戒の色はなく、純粋な感謝が宿っていた。
第5章:新たな夜明けと自己受容
その日から、俺は夜の街に出ることをやめた。 クローゼットの奥に仕舞い込まれたドレスやウィッグを見るたびに、かつての自分が確かに存在したことを思い出す。 しかし、もうそれらが必要な日々は終わったのだ。 職場での同僚との会話も、以前より自然に感じられるようになった。 昼休みには、これまで避けてきた喫煙所での雑談にも加わるようになった。
男性としての、当たり前の日常を過ごすことが、こんなにも心地良いとは思わなかった。 「最近、雰囲気変わったな。なんか、明るくなったな」 と同僚に言われた時、俺は初めて心から笑えた。
休日は、近所のボランティア活動に参加するようになった。 児童養護施設での本の読み聞かせや、地域の清掃活動。 以前は女装して得ていた「自由」とは異なる、人間としての繋がりや役割に、新たな喜びを感じていた。
父親との関係も、少しずつだが改善しつつある。 素直に自分の気持ちを話せるようになったことで、お互いの理解が深まっているのを感じる。 先日、初めて二人で酒を酌み交わした時、父親が「お前も、少しは男らしくなったな」と呟いた。 以前なら反発していた言葉だが、今は素直に受け止めることができた。
ある日、俺はかつての女装仲間の一人、”マリー”こと山田と偶然再会した。 彼は相変わらず煌びやかな姿で、夜の街を闊歩していた。
「あら、見ない顔だと思ったら、アンタじゃないの。どうしたの、こんな地味な格好で?リリーは引退したのかしら?」
山田の言葉に、俺は少し戸惑ったが、正直に答えた。
「ああ、もうやめたんだ。色々とあってな。もう、リリーは俺の中にはいない」
山田は目を丸くしたが、やがて寂しそうに微笑んだ。 「そう…なんだ。でも、アンタが幸せなら、それが一番よ」 その言葉に、俺は胸が温かくなった。
数年後、俺は図書館でボランティアとして本の整理をしていると、見覚えのある顔を見つけた。 背が高くなり、すっかり大人びた少女が、絵本コーナーで幼い子に読み聞かせをしていた。
「さくら…?」 俺が声をかけると、彼女は驚いたように顔を上げた。 「お兄ちゃん!?」 さくらは、当時と同じ、あの満面の笑みで俺に駆け寄ってきた。
「ありがとう、お兄ちゃん。あの時、お兄ちゃんがいてくれたから、私、頑張れたんだ。今は、私も誰かの力になりたいって思って、図書館でボランティアしてるの」
さくらの言葉を聞きながら、俺は涙が止まらなかった。 あの夜の出会いが、彼女の人生だけでなく、俺の人生をも変えたのだ。
俺は、トランスフォームした。
女装癖を捨てることで、俺は本当の自分を見つけることができたのだ。 そして今、俺は誰にも隠すことなく、過去の自分を受け入れている。 父親にも、同僚にも、そしてさくらにも、すべてを話した。 誰もが、俺の「変容」を温かく見守ってくれた。
これからは、偽りの自分ではなく、ありのままの自分で生きていこう。 新しい夜が、もうすぐそこまで来ていた。 その夜は、リリーの煌めきではなく、俺自身の光で照らされるだろう。 そして、その光は、きっと誰かの心をも照らすことができるだろう…
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