第一章 書斎の向こう側と奇妙な習慣
薄暗いアパートの一室、通称「先生の書斎」。窓から差し込む光は、埃をかぶった本と、読みかけの資料が積み重なる原稿の山に阻まれ、室内に届くことはない。その部屋の主は、僕の兄、清志だった。自称「孤高の文豪」、本名「ただの売れない小説家」。今日も今日とて、唸りながらパソコンに向かっている。時折、「うおぉぉぉ!」と奇声を発したかと思えば、突然立ち上がって登場人物になりきり、壁に向かってブツブツと一人芝居を始める。
「兄ちゃん、ご飯できたよー」
僕、直樹の声にも、清志はびくともしない。集中しているのか、ただ単に聞こえてないのか。僕は諦めて、書斎のドアをそっと開けた。案の定、清志の目は画面に釘付けだ。その机の脇には、幼い頃の僕たちが笑顔で写る色褪せた写真が立てかけられている。清志が僕に、初めて自分の作った物語を読み聞かせた、あの日の写真だ。
「……おう、直樹。悪い、今いいところなんだ」
清志はそう言って、チラリと僕に目をやっただけ。その指は休むことなくキーボードを叩いている。もう10年になる。清志が会社を辞めて小説家を目指すと言い出したのは。その間、売れたのは同人誌が数冊と、文学賞の一次選考通過が数回。「神山文学賞」に応募した『孤独な探偵』も、最終選考はおろか、一次選考すら突破できなかった。返ってきたのは事務的な不採用通知。その横には、受賞作の華々しい見出しが踊っていたという。
「あのさ、兄ちゃん。今日の夕飯、奮発してカニクリームコロッケにしたんだけど」
僕がそう言うと、清志の手がピタリと止まった。途端に視線がパソコンから僕に移る。
「カニクリームコロッケ……だと?」
その顔は、まるで砂漠でオアシスを見つけた旅人のようだった。売れない小説家にとって、カニクリームコロッケはそれくらいのごちそうらしい。
第二章 弟は世界一のファン、そして秘書兼料理人
食卓に並んだカニクリームコロッケは、あっという間に清志の胃袋に吸い込まれていった。まるで何日も食べていないかのようにがっつく兄を見ていると、僕の胸にはじんわりと温かいものが広がる。清志が心ゆくまで創作に打ち込めるように、僕がコンビニや清掃のバイトで稼いだお金を生活費に充てていることは、内緒だ。
「いやぁ、美味かった! 直樹は本当に料理の腕を上げたな」
満足そうに腹をさする清志は、機嫌がいいとたまに昔の話をする。
「昔、直樹がまだ小さかった頃、俺が作った粘土の作品を『兄ちゃんは天才だ!』って言ってくれたの覚えてるか?」 「覚えてるよ。あの時、兄ちゃんは『いつか俺の作った物語で、直樹を世界一幸せにする』って言ってたじゃん」
僕は笑いながらそう返すと、清志は少し照れたように頭をかいた。
「言ったな、そんなこと。でも、まさかここまで時間がかかるとは思わなかったけどな」
清志の書く小説は、正直言って理解するのが難しいことも多い。ファンタジーなのかSFなのか、はたまた純文学なのか。僕が読んでも首を傾げるような内容なのに、兄はいつも「これは既存のジャンルには囚われない、新しい文学の形なんだ!」と目を輝かせて語る。僕にはただ、難解な横文字が並んでいるようにしか見えないけれど、それでも清志の言葉には、いつもどこか心を揺さぶる力がある。だから僕は、清志の最初の読者であり、彼の暴走しがちな夢を現実へと繋ぎ止める、世界一の応援団長なのだ。
清志が作業に集中できるよう、僕は部屋の掃除や食事の準備を完璧にこなす。新作の原稿が上がると、僕はこっそり読み、励ましの付箋を貼って感想を伝える。清志が書斎にこもっている間、彼は僕にとって小説家である前に、夢を追いかける兄なのだ。彼の物語の情熱が、僕自身の生活に彩りを与えてくれる。だから、彼の夢を支えることは、僕にとって決して犠牲ではなかった。
第三章 忍び寄る現実とプライドの衝突
そんなある日、ついに現実が忍び寄ってきた。母からの電話だ。
「直樹、清志は元気にしてるの? 最近、全然連絡がないんだけど」
母の声は、いつもより少しトーンが低い。
「元気だよ、兄ちゃん。今もすごい集中して書いてるから、連絡する暇もないんだよ」
僕は努めて明るく答えるが、母は納得していないようだった。
「あのね、直樹。そろそろ清志にも、ちゃんと考えさせないとダメよ。いつまでも、親のお金に頼るわけにはいかないんだから」
ぐさりと胸に突き刺さる言葉だった。僕が清志を支えていることは、母には言っていない。心配をかけたくない一心で、今まで隠し通してきた。でも、そろそろ限界なのかもしれない。僕は友人の誘いを断り、自分の趣味にもお金をかけず、ひたすら働く毎日だった。僕自身の大学進学の夢も、いつの間にか後回しになっていた。
その夜、清志は珍しく、書斎にこもらずリビングでくつろいでいた。テレビをぼんやりと見つめるその横顔は、どこか疲れているように見える。
「兄ちゃん、最近、何かあった?」
僕の問いに、清志はゆっくりと口を開いた。
「出版社からの返事が、全部ダメだったんだ。今回の作品、自信作だったんだけどな……編集者からは、『テーマが難解すぎる』『大衆性がなく、市場のニーズとずれている』って言われたよ。俺の小説は、今の時代には受け入れられないのかな」
その声は、僕が聞いたことのないほど弱々しかった。孤高の文豪を自称する清志のプライドが、現実の壁に打ち砕かれそうになっているのが痛いほど伝わってきた。
第四章 弟の決意、兄の背中、そして共に進む道
翌日、僕は清志に話がある、と切り出した。
「兄ちゃん、そろそろ、小説以外の仕事も考えたらどうかな?」
僕の言葉に、清志はピクリと反応した。そして、ゆっくりと僕に顔を向ける。その目には、怒りにも似た感情が宿っていた。
「お前まで、そんなことを言うのか……俺の夢を、諦めろって言うのか」
「だって、このままじゃ……」
僕は言葉を詰まらせた。清志の夢を壊したくない。でも、このままでは僕たちの生活も破綻してしまう。そんな僕の葛藤を、清志は鋭い視線で見つめていた。
「俺は、お前に頼りきりなのは分かってる。でも、もう一回だけ、もう一回だけチャンスをくれないか? 今度こそ、本当に最後のつもりで書くから」
清志の目に、懇願の色が浮かんでいた。その瞳を見た時、僕の心は決まった。
「分かったよ、兄ちゃん。でも、これが最後だからね」
僕はそう言って、清志の肩を強く叩いた。その日から、僕は今まで以上にバイトを増やし、ほとんど眠る時間もなかった。コンビニの夜勤、休日のイベントスタッフ。体は正直しんどかったけれど、夜中に書斎から聞こえる清志のキーボードの音を聞くと、不思議と力が湧いてきた。兄は今、僕の知らない新しい世界を創り上げている。そう思うと、僕の疲労なんて、ちっぽけなものに思えた。清志もまた、今までにない集中力で執筆に取り組んだ。締め切りが近づくと、彼は文字通り人格が変わったように執筆に没頭し、僕に八つ当たりすることもあったが、それすらも彼の覚悟の表れだと感じた。兄の背中が、いつもより大きく見えた。
第五章 それぞれの物語、そして兄弟の絆
数ヶ月後、一通の封筒が届いた。差出人は、某有名文学賞事務局。清志の手は震え、僕もまた、固唾を飲んでその封筒を見守った。開封された手紙には、「最終選考通過」の文字が踊っていた。
「う、嘘だろ……」
清志は呆然と手紙を見つめている。僕もまた、信じられない気持ちでいっぱいだった。その日の夜、僕たちはささやかなお祝いをした。清志はいつになく饒舌で、自分の作品について熱く語った。その顔は、希望に満ち溢れていた。
結果は、惜しくも受賞には至らなかった。しかし、清志の作品は、ある出版社の編集者の目に留まり、単行本として出版されることが決まった。小さな書店の一角に並べられた清志の処女作を見た時、僕は涙が止まらなかった。
「兄ちゃん、おめでとう」
僕の言葉に、清志は照れくさそうに笑った。
「これも全部、お前のおかげだよ、直樹。本当にありがとう」
清志はそう言って、僕の肩を抱き寄せた。そして、初めて稼いだ印税の中から、僕を高級レストランに連れて行ってくれた。
「これは、お前への感謝の気持ちだ。そして、いつか、お前のためだけに、世界一幸せな物語を書くからな」
だが、出版されたばかりの清志の処女作は、初版部数も少なく、書店での売れ行きも芳しくないという現実が待っていた。清志は次の作品へのプレッシャーを感じているようだったが、僕は変わらず清志の原稿を読み、感想を伝えた。
清志の言葉に、僕は首を横に振った。僕たちはこれからも、それぞれの物語を紡いでいく。僕は兄の世界一の応援団長として、兄は僕を幸せにする物語を紡ぐ小説家として。この兄弟愛が、これからもずっと続いていくことを信じている…
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